薬膳ヒストリア

中国の歴史が長くて深いように、薬膳の歴史も長くて深いものなのですが、ここでは簡単なものをご紹介致します。

 

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原始時代

人類が進化していく過程で、火の使用は大きな役割を果たしました。
動物の肉や植物の生食から、火を通した食事になったことで、消化吸収が促進され、胃腸の病気が減りました。
食の質・栄養状態が改善されたことで、脳も発達
さらにさまざまな調理技術ができて、食材・中薬の使い方も豊富になり、食文化の発生・発展に繋がりました。

 

夏時代(紀元前2100~1700)

儀狄(ぎてき)という人物がを作り、禹王(うおう)に献呈した記録が残されています。
この時代に、炊いた穀類や米飯の残りが自然発酵して酒になったことから、人々は酒の作り方を知り、醸造する技術を確立したと考えられます。
この時代の青銅器で最も多い発掘品が酒器だそうで、酒がよく飲まれていたことを証明しています。
また「医」の古い文字は「醫」と書きますが、この下の部分の「酉」は「酒」と同意で、酒を使って医療行為をしていたことを表しています。

 

商時代(紀元前1700~1100)

この時代には食物が豊かになり、多くの調理技術が生まれました。
料理が得意で食材に関する知識が豊富な「庖人(調理師)」の伊尹(いいん)が、料理を通じて食材の薬効に気付き、調理方法を薬の作り方に活用し始めました。
伊尹は煎じた湯液を作り始めて、『湯液経』という本を書いたという伝説があります。

 

西周時代(紀元前1066~771)

この時代になると、飲食や健康を重要視する考え方が確立してきて、飲食と医療における職が設置されました。
「包人」「膳夫」「医師」「食医」「疾医」「瘍医」「獣医」などがあり、この中で食に関する職は「包人」「膳夫」「医師」「食医」でした。
食に関係する仕事が多いことをみると、当時「食が重要」だいう認識が強かったことがわかります。(『周礼』

また、この時代から、穀類・豆を利用して、酢・味噌・しょうゆ・豆豉などの製造が始まりました。

 

東周~春秋戦国~秦時代(紀元前770~206)

『山海経』は治療効果がある116種のものを載せています。中身は動物61種、植物52種、鉱物3種でした。
また、『五十二万病』は最古の医方書と言われました。

さらに、この時期に書かれた『黄帝内経素問』は、中医学の基礎理論の基となった経典で超有名です
その『黄帝内経素問』の81篇の中に、食材の四気五味の特徴・作用・使い方などに関する論述が40篇以上もあり、最も重視すべきことは治療より予防である、と書かれています。
”毒薬攻邪、五穀為養、五果為助、五畜為益、五菜為充、気味合而服之、以補益精気。”という言葉があり、食を重視する考え方がよく現れた書です。

 

漢時代(紀元前202~西暦220)

中国で最初の薬学専門書『神農本草経』が出版されました。
この書の中では365種類の薬物を、「上薬」「中薬」「下薬」の3種類に分けて詳しく説明しています。
上薬は養生・長寿の効果があり、中薬は病気の予防や虚弱を補うのに使い、病気を治すのには下薬を選ぶべきである、と書かれています。
この2000年前の記録が現在でも薬膳に取り入れられているんです!

また、同じ時代の「医聖」といわれる張仲景(ちょうちゅうけい)『傷寒雑病論』を書きました。
この書は現在、中医臨床の経典といわれています。

この書の中に、第1方剤といわれる「桂枝湯」があります。
風寒感冒(冬かぜ)の治療薬ですが、桂枝・芍薬・甘草・生姜・大棗と、ほとんどが食材で構成されている方剤として有名です。
また張仲景は、処方を書くだけではなく、その飲み方も書いています。
「薬を飲んでからしばらくして温かい粥を飲ませれば、薬効を高める」、さらに注意事項として、「生もの・冷たいもの・粘りのあるもの・肉・麵・刺激性があるもの・酒・乳製品・匂いが強いものを禁忌とする」とも書いています。
桂枝湯は強い薬ではありません。無毒な中薬で病気の10のうち9を治し、それに加えて食事によって病気を完治する、張仲景の治療法はまさに名医の治療法でした。

有名な薬膳処方に、冷えを改善する「当帰生姜羊肉湯(羊肉と当帰・生姜のスープ)」と、食欲不振や精神不安を改善する「百合鶏子湯(百合根と卵のスープ)」がありますが、これらも同じく『傷寒雑病論』の中の方剤です。

こうして周の時代から漢の時代にかけて、食養・食療・薬膳の基礎理論が中医学の発展に伴って確立していき、中医薬膳学の土台が作り上げられたのです。

 

南北朝時代(386~589)

南朝の陶弘景(とうこうけい)が、『本草経集注』で初めて730種類の植物・動物を玉石・草木・虫獣・果・菜・米など8種類に分類し、その中で果・菜・米が食療の食材と中薬に属することを明記して、禁忌と衛生について書きました。
この書は漢時代の『神農本草経』の次に、中薬に関する重要な本です。

また、この時代から、貯蔵・運送のために、茶を茶餅などの形に加工して、東南アジアに輸出した、という記録が残されています。

 

唐時代(618~907)

国立の医科薬科大学に相当する「太医署」が設置されました。
これは、中国の歴史上最大の影響力を与えた出来事でした。

またこの時代に「薬王」と尊敬される孫思邈(そんしばく)が書いた『備急千金要方』には、多くの中薬と方剤、および食事に関することが記載されています。
その中で医者は、病因病機をはっきりと見極めたうえで、まずは食によって治療を行うべきで、投薬はその後の手段である、と強調しています。
あるいは、羊のレバー・骨髄・筋・胆や、豚のレバー、うさぎのレバーを利用して、目の病気を治療することが書かれていて、この時代に動物の内臓を用いて人体の臓腑を養うという、病気の予防・治療方法が確立されたとみられています。
さらに、この書には「食治篇」があって、果実・野菜・穀類・鳥獣虫魚の4章に分類されており、これが、最も古い食療法の専門篇です。

孫思邈の弟子・孟詵(もうしん)は、この食治篇をもとにして、食材と中薬を増補し、138種の薬膳の処方を編集して『食療本草』を書きました。この本が、食療法の最初の専門書です。

またこの時代には、茶が一般の家庭では欠かすことのできない飲み物となっていて、陸羽(りくう)が世界で初めて、茶の専門書『茶経』を書きました。
また、張又新(ちょうゆうしん)は、『煎茶水記』を書き、世界で初めて、茶のおいしさが水と深く関係していることを強調しました。

この時期は、多くの食養・食療に関する本が続々と出版され、また豊富な経験を積み重ねることのできた時期で、食療は1つの独立した専門分野として発展し始めました。

 

宋時代(960~1276)

この時代には、国家薬局が設立され、薬物の仕入れと販売が国家の専売になりました。
その後、医学史上最初の薬品製造・販売のための「太医局熟薬所」(売薬所)という官立の薬局が開設されて、南宋の時代に「太平恵民局」と改名されました。
国家によって初めて『太平恵民和剤局方』という中薬と方剤の専門書が頒布されました。その中には、薬膳の処方も含まれています。
例えば、元気衰弱・真陽虚損に用いる「羊肉圓」(羊肉団子)。羊肉を酒でやわらかくなるまで煮込んでから細かくつぶし、補骨脂(=オランダビユ)・山薬(=山芋)などの中薬粉と小麦粉を加えてドロドロの状態になるまで煮込んで、小粒の丸剤を作ります。
また、母乳が出ない産婦に飲ませる「豚足と通草のスープ」などもあります。
唐の時代に引き続き、多くの書籍に「食治門」が設けられた時代でした。

一方、処方のより優れた効果を求めるうちに、食物や中薬の性味は効能と同じくらい重要であることが、この時代に認識されていきました。
例えば、牛乳。性味は微寒で、効能は止渇・補虚。あずきの性味は酸・甘・平で、むくみ・消渇・下痢などに使う、といった具合です。

 

金元時代(1115~1368)

金元時代は宋時代と一部重なる期間もあり、中医学の各家学説・医学流派が盛んになった時代でした。
その1つに、李東垣(りとうえん)の脾胃の働きを最も重視する考え方があります。
また、攻補兼施を主張する張従正(ちょうじゅうせい)は、「養生のためには食によって補うのは当然である」「精血不足も当然食によって補う」と提唱していました。
陳直(ちんちょく)の『奉親養老書』には、「「いくら医者が薬を上手に使っても、食による治療には及ばない」と記載されています。つまり、食材に関する知識をもち、うまく食材を張剛して使えば、薬の何倍も効果があるのだから、よく薬を使う人よりも上手に食を利用する人の方が優れている、というのです。
この頃には食物は、長い間の実践と経験を通じて、薬効が目立つものと栄養価の高いものとに分けられ、「中薬」と「食材」に分類されていきました。

その後、モンゴル族がユーラシア大陸を支配したことによって、各民族間で食文化の交流が活発になりました。
宮廷の太医を務めた忽思慧(こつしえ)は、『飲膳正要』を書き、食薬230種、図168枚、献立238方を載せています。この本はそれまでの食療から営養保健に注目し、営養によって病気を予防することを強調したので、中国では最初の栄養学の専門書となっていて、また、肉に関する詳しい説明が書かれています。

 

明時代(1368~1644)

この時代に、薬膳学は中医学の進歩とともに全面的な発展と成熟の時期に入ります。
代表的な書物は李時珍『本草綱目』です。
この中に薬1892種、方剤11000あまりを載せていますが、多くの食療と薬膳の内容が含まれ、後世に豊富な資料を提供しています。
例えば、薬粥が42種、薬酒75種などです。

 

清時代(1644~1911)

食療が重視され、多くの食物と本草に関する本が整理されて出版された時代でした。
趙学敏(ちょうがくびん)が『本草綱目拾遺』を出版して、716種の薬を新たに加えました。
曹慈山(そうじさん)が老人のために食薬を用いて作った100種の薬粥が集められた『老老恒言』を書きました。

 

中華人民共和国(1949年~)

食薬に関する整理、開発、研究が今も進んでいます。
1997年、国家から中医薬教育に中医養生康復専門学部をおくことが正式に許可されました。
これで、中医営養薬膳学の発展が素早くなり、食薬に関する応用と研究を促進することとなりました。

 

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以上のように、中医薬膳学は、上古時代の発生と発展、商・周時代の官制の設立、唐時代の発展、明・清時代の成熟、近現代の肝清という長い道をたどったのちに、独特の中医薬膳学が形成されるに至り、今なお研究され後世へと受け継がれています。