李時珍の故郷①

  1518年長江の岸辺の平春県で李時珍は代々医者の家に生まれました。 幼い頃から祖父・父親の側で医学に触れていましたが、父親の希望としては息子が政治・官僚の道に行き出世することを望みました。 しかし、元々官僚になることに興味のない李時珍は3回科挙試験に失敗したため、父親の許しを得て医の道に入りました。

 医者の仕事をしているうちに、李時珍は多くの本草書の誤り、漏れ、重複に気がついて、多くの疑問を持ち、“神農本草…梁・唐・宋重修、各有増附、或併或退、…義意倶失。…玉・石・水・土混同、諸虫、鱗、介不別、或虫入木部、或木入草部。…薬有数名、古今不同…。所入薬品、或一物再出三出、或二物三物混在”などの問題を提出し、何度も朝廷に上書して本草書を整えるように求めましたが、決して応対してもらえなかったため、改めて自分で『本草綱目』を書くことを決心しました。 『本草綱目』は李時珍が1552年から書き始め、何回も湖南・湖北・広東・広西・江西などの山川へ足を運んで薬を探して確認しました。 3回原稿を直して1578年に27年を経て完成した書籍です。 朱熹の『綱目』を借りて書名を『本草綱目』にしました。 『本草綱目』16部、52巻、約190万文字。全書に今までの薬物1518種を収納し、374種の薬物を増加し、合せて1892種の薬物を載せています。ほかに単方11096方を収録し、1100枚の植物図も描いてあります。『本草綱目』を書くために歴代の本草書籍42冊、医家書籍361冊、経書史書591冊、合計994冊を調べて参考にしました。しかし残念なことは李時珍の生前には『本草綱目』が出版されなかったのです。

 『本草綱目』が出版されてから、日本・朝鮮半島・イギリス・フランス・ロシア・ドイツなどの国に広く伝わり、日本語、英語、ロシア語、ラテン語の訳本もあり、世界の本草学・薬物学・博物学に大きな影響を与えました。 古代中国の多くの優秀な学者のなかに世界に認められた科学者2人がいます。 その1人は李時珍です。