2月4日の立春以降、20℃を超える暑い日と10℃以下の寒い日が繰り返していますね。 春の東風と冬の寒気が混じり合った気候が来たり行ったり。 気温の上昇、雨が降り、植物が伸びやかに成長し、緑が現れ、花が続々咲くことで、花粉が舞って体に影響します。 このような天気の変化、不安定さにより病気を引き起こしやすくなります。 こういう場合、中医薬膳学では温病(うんびょう)の考えを用います。
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温病(うんびょう)って、何ですか?
中国最古の医学古典書である『黄帝内経』(紀元前)に温病についての記録がありました。 漢の時代(紀元前246年~紀元220年)の『傷寒雑病論』にも温病の症状と治療する方剤が載っていましたが、1つの学問として理論も応用も発展していませんでした。
明の時代(1368年~1644年)の晩期に温熱病が流行り、1408年~1645年の間に大きな瘟疫が19回発生したこと、死者が数え切れないほど多かったこと、1587年京城患者数は109,590人だったとの記録が『明史』に記載されています。
『崇禎実録』には、華北三省でペスト死亡数が1,000万人以上と記録されています。
江南の医師である呉有性(字・又可)(1587~1657)は、これを温疫と考え、中国でもっとも古い伝染病の専門書『温疫論』を著しました。 この本に腸チフス、マラリア、天然痘、コレラ、おたふく風邪、ハンセン病、黄疸などの伝染病についての臨床治療経験を書き、病気の過程における舌象の変化を重視し、達原飲、三消飲、清燥養陰湯、増液湯などの方剤を創出、食材では梨汁、サトウキビ汁、蓮根汁、西瓜汁を勧めました。
清時代(1644年~1910年)の中期、葉天士が舌・歯を観察し、斑疹を弁明、温熱病を衛分・気分・営分・血分の4つの段階に分け、衛気営血の弁証論治理論体系を創立しました。 その理論を弟子達が『温熱論』にまとめました。
同時期の薛雪が湿病の病因・病機・病症・治療方法を論じ、温病学説を充実させました。
その後、呉鞠通が葉天士の医案を研究し、自分の心得を合わせ、温熱病の治療を整理し、『温病条辨』を書きました。 彼が温熱病の伝変を上焦・中焦・下焦の三段階に分け、三焦弁証を創立。 治療において清絡・清営・育陰の大法、桑菊飲・銀翹散などの有名な方剤も作り出しました。
王孟英が温病の医学家の学説をまとめ、『温熱経緯』を書き、温熱病の普及とまとめに貢献しました。 温熱病の研究は成熟時期に入ったのです。