李時珍②―李時珍の故郷

 李時珍の故郷である蘄春県は当時儒学者を輩出したところです。 明の第12代皇帝(世宗)の息子である荊王(けいおう)が気に入り、王府を建てました。 蘄春県出身で朝廷に奉職していた ある著名な理学家の顧問が教育を重視し、故郷に私塾を開きました。 顧問の実家に朝廷から贈られた書籍81の本棚もありました。

 李時珍の父親は当時の名医で、よく荊王府に出入し多くの病気を治していたため、太医院に奉仕することもありました。 父親の希望は、息子が政治・官僚の道に行き出世することであったため、5才の李時珍を顧問家の塾に入学させました。 顧問のもとで教育を受けた14才の李時珍は、秀才の試験に合格しましたが、元々官僚になることに興味がなく、3回科挙試験に失敗したため、父親の許しを得て医の道に入りました。

 幼い頃から祖父・父親の側で医学に触れていた李時珍は、父親について医と薬を勉強し、30才位の時に地方の名医となりました。 その後1年間、太医院の仕事で、彼は大量の書籍を読み、多くの薬物標本を見、医薬知識をさらに豊富に積み重ねました。 『本草綱目』を編纂した時に、退官し故郷に戻った顧問が、蔵書をすべて李時珍に開放し、便宜を与えました。

 李時珍の『本草綱目』は、本草書・医学書以外に諸子の書籍・伝記・地理・遊記・植物・食べ物など、591家の古今古典・歴史の書籍を参考としていることから、その高水準の文化教養が類推できます。 この広範な知識・文学修養と経歴が、李時珍が『本草綱目』を書いて完成させた源と考えられます。