李時珍③―『本草綱目』の誕生

 1552年、34才の李時珍は『本草綱目』を書きはじめ、何度も湖南・湖北・広東・広西・江西などの山川へ足を運んでは、薬を探して確認しました。 3回原稿を直して 1578年、27年を経て完成した『本草綱目』は、16部、52巻、約190万字からなります。 本書にはそれまで分かっていた1518種に、374種の薬物が加わり、合せて1892種の薬物が掲載されています。 ほかに単方11096方を収録し、1100枚の植物図も描かれています。

 幼い時に理学教育を受けた李時珍は、南宋の著名な理学者である朱熹(しゅき)の『通鍳綱目(つうかんこうもく)』を拝借して、書名を『本草綱目』にしました。 李時珍は脱稿した『本草綱目』を出版するために、故郷から江蘇省へ行き、刑部尚書(けいぶしょうしょ)から引退した 最も有名な文学家である 王世貞(おうせいてい)に頼み、序文を書いてもらいました。 そのお陰で、1596年、李時珍が死没後3年を経て、南京で『本草綱目』は500部の金陵版(きんりょうばん)が出版されました。 “近世所習用而確乎有明効者、其用心亦勤矣、医家諸流、得此書而存之、庶幾可無誤乎”。 本が出版されてから好評となり1603年、『本草綱目』は翻刻されました(江西版)。

薬膳の普及と実践に

 昨年、東北大学の先生のご紹介で、日本食農連結機構東北支部から依頼を受け、仙台で3回薬膳の講義を行いました。 打ち合わせの段階で、この講座が修了する時に参加者が薬膳粥を作れるようにしてほしいという要望にびっくりしました。 3回の学習で薬膳のメニューができるなんて、「天方夜譚」だと思いました。

 参加者は宮城県、新潟県、山形県からで、ほとんどの方々が米、大豆、味噌、漬物、畜牧などの生産者です。 東京からご参加の方は食品メーカの方でした。 少しでも皆様のお仕事に役立つ講義を行いたいので、担当者と相談しながら毎回の内容を考えて修正し、講義は順調に行われました。

 1回目から粥の制作に関わり、五季の薬膳粥にテーマを絞り、季節の特徴、臓腑との関係、使える食材、食材の配合など、講義後にクループを分けて、学習した知識と皆様の経験・知恵を合わせてメニューを相談し、決めました。

 最後の日は、皆様は午前中から薬膳粥の制作に入りました。

 

 3回に渡って予定通りに講義を行い、薬膳粥を上手に作りました。 見た目が綺麗で、味も美味しかったので、皆様、大満足なさっていました。 私もこの機会によって生産者の方々の優しい心持、新しい知識への欲望を深く感じて、勉強になりました。

李時珍②―李時珍の故郷

 李時珍の故郷である蘄春県は当時儒学者を輩出したところです。 明の第12代皇帝(世宗)の息子である荊王(けいおう)が気に入り、王府を建てました。 蘄春県出身で朝廷に奉職していた ある著名な理学家の顧問が教育を重視し、故郷に私塾を開きました。 顧問の実家に朝廷から贈られた書籍81の本棚もありました。

 李時珍の父親は当時の名医で、よく荊王府に出入し多くの病気を治していたため、太医院に奉仕することもありました。 父親の希望は、息子が政治・官僚の道に行き出世することであったため、5才の李時珍を顧問家の塾に入学させました。 顧問のもとで教育を受けた14才の李時珍は、秀才の試験に合格しましたが、元々官僚になることに興味がなく、3回科挙試験に失敗したため、父親の許しを得て医の道に入りました。

 幼い頃から祖父・父親の側で医学に触れていた李時珍は、父親について医と薬を勉強し、30才位の時に地方の名医となりました。 その後1年間、太医院の仕事で、彼は大量の書籍を読み、多くの薬物標本を見、医薬知識をさらに豊富に積み重ねました。 『本草綱目』を編纂した時に、退官し故郷に戻った顧問が、蔵書をすべて李時珍に開放し、便宜を与えました。

 李時珍の『本草綱目』は、本草書・医学書以外に諸子の書籍・伝記・地理・遊記・植物・食べ物など、591家の古今古典・歴史の書籍を参考としていることから、その高水準の文化教養が類推できます。 この広範な知識・文学修養と経歴が、李時珍が『本草綱目』を書いて完成させた源と考えられます。