中医学協会を東京に設立しました

去る4月19日、中医学に従事する日本の華僑・華人で中医学協会を東京に設立しました。これにより日本に滞在する中医学の専門家は、やっと自分たちの団体ができたことになります。


この協会は中国の中医薬大学や西洋医学の大学、約 30校の卒業生 70名あまりによって構成されています。会員は来日後、様々な困難を乗り越えて、勤勉な奮闘によって自分たちの事業を起こして発展させ、日本の地にしっかりとした根を下ろしています。

設立大会には留学生総会会長、元民主党党首の海江田万里氏、大使館参事官、中日友好協会会長、順天堂大学特任教授、江西漢方医薬大学副校長など多数の来賓がお祝いに駆けつけました。

 中医学協会初代の会長は本草薬膳学院学院長の医学博士 辰巳洋氏が就任します。

食事の起源

%e9%bb%84%e5%b8%9d  黄帝が天下を治めるようになって、まず解決したのは食の問題でした。 「史記」には五帝本記には「黄帝藝五種、撫万民」(黄帝は食物の種類を豊富にして、民衆の生活を安定させた)『淮南子(えなんじ)』には「黄帝作竈」(黄帝はかまどを作った)とあり、『古史考』には「黄帝作釜甑」(黄帝は煮物鍋と蒸し鍋を作った)、「黄帝始蒸穀為飯、烹穀為粥」(黄帝は、穀物を蒸してご飯を作り、粥を作った)という記述があります。%e9%bb%84%e5%b8%9d%e5%a7%8b%e8%92%b8%e7%a9%80%e7%82%ba%e9%a3%af%e3%80%81%e7%83%b9%e7%a9%80%e7%82%ba%e7%b2%a5

   黄帝時代にはかまどや鍋だけでなく、脱穀するための石臼や石杵などの道具も作られました。 さらに海水から塩を作る技術ができ、それまで味のなかった食事が美味しいものになりました。

 つまり今、私たちがよく食べているご飯やお粥は、人間が何千年も前から食べていたことになります。 ですから黄帝内経の時代に料理が始まったといってよいでしょう。

食医とは

%e6%89%81%e9%b5%b2 「食医」の仕事は『周礼』天官冢宰第一によれば「和王之六食、六飲、六膳、百羞、百醤、八珍の齋」と記載されているように、王の飲食のバランス・四季の陰陽調和・味の組合せなどを管理する最も重要なものでした。

「六食」は稻(いね)・黍・稷・麦・粱のこと、「六飲」は水・漿(発酵したもの)・醴(甘酒)・涼(酒の水割り)・醫(粥で作った甘酒)・酏(重湯)のこと、「六膳」は馬・牛・羊・豚・犬・鶏のことを指します。

「百羞」は多くのおいしい食事「百醤」は肉・魚・塩などから作られたソース状の食品、八珍は古代の美食のことです。