李時珍の故郷②

 前から李時珍の故郷を訪ねようと思っていました。 今年の夏にやっと時間を作って行かれるようになりました。 8月15日昼、北京西駅で列車に乗って李時珍の故郷である湖北省平春県へ出発しました。 特急列車が緑色の大地を16時間走って翌日の朝方の4時に平春県につきました。 暗い駅前でタクシーを拾って、40分ぐらい乗ってから車が畑の真中の道に止まりました。 田舎です。 朝霧のなかに「李時珍記念館」が厳かにそびえ立っています。 9時の開館時間まで4時間もあるので、まだ暑くなっていないうち、ゆっくり周辺を散歩して風景を楽しみました。 蓮の花はほとんど咲き終わりましたが、大きな蓮の葉によって緑の海が目の前に広がっていました。大小の湖に真珠を養殖しています。 漁家の船も湖面上に行き交っています。 清新な空気で肺を綺麗に掃除しました。 その後蒸し熱くなってきたので、階段に座り込んで時間を待つしか仕方ありませんでした。

 やっと開館時間になりましたがなかなか開けてくれなかったので、乗った16時間の列車の疲れ、待った4時間の不満で大門を叩きました。 ドアが開き、迎えに出てきた笑顔をみて、今までの怒りが消えてしまいました。 50000平方メートルを占めている記念館は中薬の標本を展示している博物館、文献・書籍・古典の善本を展示している記念館、多くのメーカの贈り物を展示している長廊、百草園と李時珍とご両親が眠っている墓の霊園の五大部分によって構成されています。 園内は参天の大樹、芳香の花草、満池の蓮葉、本当に素晴らしいところです。 今回の目的としては館内展示してある『本草綱目』の各時代の版本を拝見することと墓参りです。 がっかりしたことは館内内装のために貴重な資料は皆他所のところに運ばれて保存されているため、記念館内は工事の道具のみ散乱していました。 中薬の標本は古くて色はほとんど落ちていました。 李時珍が眠っている墓に参り、この偉大な医学者・博物学者・科学者に3回お辞儀をしてから囁いてきました。 “せっかく日本から参りましたが、今度、館内内装する時にはホームページに通告を出すようにお願いいたします”。

黄帝という人物

%e9%bb%84%e5%b8%9d 黄帝は五帝の最初に必ず名前があがる人物として尊敬されています。 黄帝の誕生についても説話があります。

 陜西省の北部に姫水という川のそばの軒轅という丘に有熊国の首領の少典氏が住んでいました。 ある日、少典が妻と仲良く散歩していたときに空から雷が落ち、妻はその瞬間に体の異常を感じました。 まもなく妊娠したことがわかると、天神が誕生するという噂が流れ、元気な男の子が生まれました。

 この国の人々は木・火・土・金・水の五徳の土徳を尊敬し、土の色である黄色を大切にするため、男の子この子には黄帝という名前がつけられました。(「史記・五帝本記」) 成長してたくましく大人になった黄帝は首領となって部落を繁栄させました。

 黄帝は卓越した兵術によって炎帝を敗り、中原地域を統一したので、中華民族の始祖といわれています。 黄帝の時代に、車輪、木船、木造の家、服、暦、文字が発明されたり、桑の園林を蚕を飼って絹を織るなど、文化が大きく発展したことも黄帝が崇められるようになった理由です。 黄帝の名前を使って書いた『黄帝内経』は中医学の経典と大事にされています。

%e9%bb%84%e5%b8%9d%e3%81%ae%e6%b2%bb%e4%b8%96 伝説では、黄帝は110歳まで生きたとされています。 しかし黄帝の故郷では、この年齢で亡くなるのは早い方でした。 『山海経』大荒西経に「有軒轅之国、江山之南栖為吉。 不寿者乃八百歳」とあるように、人々は山の南に住み、新鮮な空気を吸うと同時に、天地の精気によって作られた露を飲んで長寿となり、少なくとも800歳まで生きることができたというのです。

 長寿と食の関わりは古くから重視されていました。 『黄帝内経』81篇の中に、「上古天真論篇」第一をはじめ、健康益寿に関する論述は40篇以上あり、医療より養生の方に重点が置かれているといえます。

李時珍の故郷①

  1518年長江の岸辺の平春県で李時珍は代々医者の家に生まれました。 幼い頃から祖父・父親の側で医学に触れていましたが、父親の希望としては息子が政治・官僚の道に行き出世することを望みました。 しかし、元々官僚になることに興味のない李時珍は3回科挙試験に失敗したため、父親の許しを得て医の道に入りました。

 医者の仕事をしているうちに、李時珍は多くの本草書の誤り、漏れ、重複に気がついて、多くの疑問を持ち、“神農本草…梁・唐・宋重修、各有増附、或併或退、…義意倶失。…玉・石・水・土混同、諸虫、鱗、介不別、或虫入木部、或木入草部。…薬有数名、古今不同…。所入薬品、或一物再出三出、或二物三物混在”などの問題を提出し、何度も朝廷に上書して本草書を整えるように求めましたが、決して応対してもらえなかったため、改めて自分で『本草綱目』を書くことを決心しました。 『本草綱目』は李時珍が1552年から書き始め、何回も湖南・湖北・広東・広西・江西などの山川へ足を運んで薬を探して確認しました。 3回原稿を直して1578年に27年を経て完成した書籍です。 朱熹の『綱目』を借りて書名を『本草綱目』にしました。 『本草綱目』16部、52巻、約190万文字。全書に今までの薬物1518種を収納し、374種の薬物を増加し、合せて1892種の薬物を載せています。ほかに単方11096方を収録し、1100枚の植物図も描いてあります。『本草綱目』を書くために歴代の本草書籍42冊、医家書籍361冊、経書史書591冊、合計994冊を調べて参考にしました。しかし残念なことは李時珍の生前には『本草綱目』が出版されなかったのです。

 『本草綱目』が出版されてから、日本・朝鮮半島・イギリス・フランス・ロシア・ドイツなどの国に広く伝わり、日本語、英語、ロシア語、ラテン語の訳本もあり、世界の本草学・薬物学・博物学に大きな影響を与えました。 古代中国の多くの優秀な学者のなかに世界に認められた科学者2人がいます。 その1人は李時珍です。